2007年9月30日日曜日

晴天、のち雨。

この27日は息子の体育祭でした。晴れたり曇ったりの一日だったけど、競技場に遠い息子の友達3人が泊まりに来て、みんなコンビに弁当でいいですって言ってたけど・・・母としてはさすがに自分の子供だけでいいとも思えず。
前日の夕飯、当日の朝飯、弁当と…民宿の人か仕出し屋になった気分で、夜から早朝から大変でした(^^;)
まぁ、日ごろ仕事を理由に満足な母親業もできないという後ろメタさもあって、こんなこともいいかなぁ…と。

次の日は夏に戻ったようなテカテカの天気。
民宿の女将としては、お客さんの布団を干し、シーツやらタオルケットやら…前の日サボった洗濯物を合わせて大型洗濯機で4回の洗濯物も干し。ついでにクリスタルたちも陽にあてて一日中バタバタ。
お陰で、布団も洗濯物も一日で片付いたけどね。
そのまた次の日は、次の日でもうひとりの息子の運動会!
でも、夜から天気が怪しい。

29日。やっぱり雨・雨・雨。
夜から降り出した雨が、朝になっても止まず・・・花火も鳴らず、中止の連絡網が。
二日間のバタバタの後の休息といえば休息だけど、運動会は順延で、日曜日は雨でも弁当もちで授業だそうで。明日も早起きして、仕出し屋をやることには変わりない(;;)

連休は3日しか取ってないんで、母はもう運動会は見にいけない。
ごめん息子。
リクエストどおり、ピーマンの肉詰めとウィンナーと卵焼きは弁当に入れてあげるから許してね!
今日晴れたら(兄ちゃん達は部活があるので)、父と二人でお昼を食べてください。

運動会と言えば。
泥んこになった白い体育着、Tシャツ、靴下。皆さんどおしてますか?
手洗いじゃないと落ちないですよねーっていうか、手洗いでもなかなか落ちない。

いいことを教えます(知ってる人は知ってるけど)。
市販の体洗い用の固形石鹸(私は植物物語を使ってる)。洗いたいものを水でぬらして手のひらにのばして、あれをひたすらこすり付ける。面倒だけど、泥のついてるところすべてにこすり付けてその後、もみ洗い。
で、よくすすいで洗濯機で他のものといっしょにもう一度洗濯。
よほどたちの悪い泥で無い限り、キレイになりますよ。
洗濯用固形石鹸よりよく落ちて手も荒れません。ぜひ!お試しください。

あーぁ、仕事行くのメンドクサイなぁ・・・。

2007年9月27日木曜日

暴力

「日本ではもう60年も戦争をしていない。」

それはそれで、幸せなことだけど。
ニュースでは連日”暴力”の犠牲になっている人たちについて報じられています。
怒りというか、悲しさというか、とにかくいつもある種の絶望感に襲われます。

躾という名の虐待。
指導という名の暴行。

相手を痛めつけているとき、そこに愛情って存在するのでしょうか?
自分の思うようにならない苛立ちを相手にぶつけているだけなんじゃないでしょうか?

”愛”って言うのは見返りを求めない気持ちであり、行為です。
自分中心の考え方を相手に押し付ける結果、相手を傷つける。それをどうして愛情だなんて呼べるのでしょうかね。
相手の幸せを奪うことで幸せになれるなんてことはありえない。


生まれて健康に育ってきたその肉体や精神を傷つけてもいい権利なんて、誰も持っていない。

エゴや何かへの執着が相手を抹殺すること、コントロールしようとすること。
自分の手が傷つかないように、痛まないように、ものを使い。
心が痛まないように、集団で行う。
罪にならないように、大儀をつくりだす。
戦争はそうして起こる。
恨みが報復と言う大儀をまた作り上げ、教育のなかに組み込まれ、受け継がれる。
善人のモラルは押し流され、捻じ曲げられる。

毎日報道されている暴力は個人の問題だと思うかもしれない。
多くの人が、それを他人事だとか、仕方ないとか感じているなら。
この国はまた何らかの形で戦争に参加する要素が十分にあるということです。

殴られたら殴り返す。殴られる前に殴る。
そんなことを仕方ないと思う人々がいる限り、愛を子供たちに伝えていくのは難しい。

自分の生活する小さな空間が平和ならいいと、小さな暴力や他の国の戦争という暴力に無関心でいること。その痛みを忘れること。
それが新たな暴力を生み出していると言うことを知ってください。

いつの日も、相手が(自分の周りが)幸せであることが自分の幸せの条件の核心であり、それを平和と呼ぶのだということを心に留めて欲しいのです。
私達は平和を維持できる魂へと進化しなくてはならないのだと思います。

人の長い歴史の中で、まだたった「60年間戦争しないでいるだけ」なんですから。

2007年9月19日水曜日

パッチとマザーテレサ

人々を救済していこうという働きをしている人はたくさんいます。

どんな方法でどの部分を救済していこうと考えるかはそれぞれ違いますが、ひとつ共通しているのは”使命感”でしょうか。

パッチ・アダムスとマザー・テレサ、私はこのお二方と実際にお会いしたことがあります。
マザーと会ったときはまだ何も出来ない、毎日をぼんやり過ごしていた年齢だったのですが、とても身近な存在というか、どこにいても人々の中に溶け込んでいく人・・・という印象を覚えています。

二人とも社会の生み出す貧困と暴力の犠牲になっている人々に対して、問題意識を持ち自ら活動を始めたひとではあるのだけど。本当に大きくくくれば、マザーは身近な人々、一人ひとりに目を向ける活動をしていた人。パッチは社会の流れを変えていくための活動をしている人。ということが出来るかもしれません。

この「CO」と「MASS」のちがいはあるけれど、見ているものは同じ。このマクロとミクロの目は私たちの中に誰もが持っているものです。社会情勢をどう受け止めるか、身近なことのどこに問題意識を持つか・・ってことでしょうか?

パッチは「~だから出来ない」って言うのはナシにしよう。って言っています。
この”~”っていうのは自分の能力やしがらみのこと。
「I wont to do」って言ってるうちは何も起こらない、夢を実現するために必要なのは「I do」って言うことなんだよ!って。
これはなにも平和活動だけでなくて、すきなことを極めたい!とか、私はこうなりたい!という個々の目的のためにも活用することができます。

救済という言葉はあくまで俯瞰からみたものの言い方で副産物でしかありません。
彼らは愛の発見者であり、発信者です。
愛の発見者であるという使命感が、彼らから能力の限界やしがらみへのネガティブな思いを取り除いているように思います。
私たちからすると突き抜けて見えるのはそこなのかもしれません。

私も二人にならい、「I do」の思考で夢や目的に近づけるようにしていこうと思います。
(パッチ的にはしていきます。と言わなければなりませんね(^^;)

パッチのしっかりした大きな手、マザーの小さくて柔らかな手。どちらの手も本当に暖かい手でした。


これはパッチの活動の発信基地です興味のある方は覗いてみて!
http://www.patchadams.org/home.htm

今日もどんより

いよいよ虫の声が夜な夜なにぎわう季節になって来ましたね。

今日の天気は曇り空でしたが、よ~く空をみると入道雲みたいにムクムクと湧き上がる雲も・・・。
不思議な季節です。
晴れたら晴れたでまだまだ日焼けしそうな太陽光線。

こんなでしたっけね。
日本はもっと緩やかに季節の変化の起こる国だったような気がしていましたが、ひたひたと何かに向けての足音が聞こえてくるような気がします。

温暖化が起こす様々な悪影響。長い長い地球の歴史の中で、幾度と無く起こってきた異常気象はまさにノアの箱舟のごとく、様々な淘汰を繰り返してきたのだと思いますが。
これ、人類たちの手で止められるとするならば、人類はもはや地球上の他の生命にとって(地球にとっても)神に匹敵する存在になってしまったというんでしょうか。
地球を家としている野生動物たちは、日々の生活を自分たちにとって快適なものにしようなどとせず、ただ淡々と生活しているだけなのに一番の被害者となっている現実。

地球上から姿を消した動物たちの最後の一匹はどんな思いで生き最後のときをむかえたのでしょう?
きっと淋しくて淋しくて悲しかったろうな。

人類という神々は地球という舟をどこへむけていくのでしょうかね。

2007年9月16日日曜日

稲川淳二その2

稲川淳二のミステリーナイトツアー行ってきました!

15HTアニバーサリーと言うことだったんですが、特に特別な企画もなく、いつもどおり淡々と進行。
ただ、いつもながらセットや音響、照明は実に凝っていて感心しました。

稲川さん、今年は還暦だそうで。
最後には赤いチャンチャンコを着てくれましたが、相変わらず朗らかで明るくてサービス精神あふれる人柄の出るステージでした。

考えてみれば、恐い話だけでステージをするっていう発想がすごい。
ただ、人の話をじっと聞く機会ってどんどん減ってきているというか、あんまり日常ではないなぁ。

このステージのセットは毎回、晩夏をイメージさせる開放的な日本家屋で、稲川さんの言うとおり夏休みに帰省した親戚の家って感じ。
幼いころ、農家だった祖母の家に泊まりに行くと、畑の行き帰りだのどこかへ行くところだの、とにかく家の前を通りかかったって言うだけで寄るんだよね。人が来るとままどうぞなんて無理やりにでもお茶を進める、じゃ一杯だけっていってあがり端に腰掛けて四方山話をしていく。次から次へとそんな人が寄っていったっけ。時々採れたもの置いてったりして。

今の生活じゃ考えられないよ。
だって、前を通ったっていうだけで家に寄るんだよ。毎日通ってる道だよ。
昔の人はお互い様とか、もてなしの心とか染み付いていたんだよね。農業は共同作業だから、コミュニケーションはとてもとても大事だったんだろうな。
日本家屋の開放感って、人を招く作りなんだなぁなんてこともつくづく感じます。

稲川さんのステージには10代からお年寄りまで、世代や男女差がなくリピーターが多い。
自称「田舎のおっちゃん」という彼と彼の話が作り出す雰囲気は、まさにさっき書いた近所づきあいが濃密だったころの郷愁を感じさせる。
この郷愁って経験のあるなし、世代に関係なく日本人のDNAに染み込んでいるんですかね。


今年の話も恐くておもしろかった。
また、来年も行きたいです。

2007年9月15日土曜日

エネルギーワークその2

近頃、”レイキ”の練習(?)をしています。

(”レイキ”ってなによ?って思う方は膨大な情報がネットに溢れていますので見てみてください。)

エンジェルメディスンや色々なエネルギーもアチューンメントで受け取り活用することが出来るんですが、受け手にとってはそれらとレイキはちょっと違うものです。

うまく説明できないや(^^;)

ま、とにかく私は今、レイキの修行中。
お友達や家族にはこれはこういうもので・・などと説明せずに使いますが、みな一様に受けた後の感想が同じなのは我ながら驚き!

それを癒しと呼ぶか否かは別として、何かが変化するようです。


ケアすることと、癒すことって凄く近いことのようにかんじますが、このごろ全然違う気がしています。

ケアすることでも癒すことでも、何らかの安楽を相手に与えることには変わりないけれど、受け手にとってケアとは場の変化、癒しは個の変化なのではないかと思う今日この頃。

その場面でのエネルギーの方向から言うと、ケアは与える側にエネルギー量が常に多くて成立しているのに対して、癒しは与える側のエネルギーが常に多くなくても成立してしまうものだと感じます。

例えば、ガーデニング。(患者さんと看護師。お母さんと子供でもいいや。)
せっせと水をやり、土壌や日光や季節などの環境を整え、害虫や病気から守り、花を咲かせるためにケアします。
で・・どんどん成長して見事に花を咲かせたとき癒されているのはどちらかというと人間のほうだったりするわけ。
目的に対して知識や経験から優位にあるほうが、お世話して不足を補い成長や回復を促進していく中で、どこに(どちらに)癒しが発生するのかというのは、立場や優位さや時間とは無関係なものなんですよ。

癒された方に何が起こるかというと、それは気づきであったり、次のステップや日常への活力であったりするんです。
(この辺は、先日のM君への私のメッセージとリンクするところ。ケアする人は燃え尽きないとう持論に重なる部分ですが・・・。これに関してはまたの機会に。)


でね。レイキでの一番の発見は、人やものを癒すときに自分も癒されるってことです。
このケアからセルフヒールドへのリターンがひとつにまとまっているとでもいいますか・・・。

とにかく、テクニックの点では向上中な私なのでまだまだ発見は続くと思います。
このテーマはまたレポートしていこうと思います。

2007年9月14日金曜日

稲川淳二

明日は稲川淳二さんのミステリーナイトって言うお話の会に行きます!

知る人ぞ知る、人気講演です。

私と友人の二人はここ3年ぐらい出かけていますが、リピーターが多いようで、なかなかの盛り上がり。
セットや音響や照明なんか実に凝っていて、丁寧につくられたステージ。

なんというか、人柄と言うかしみじみとした語り口。
やさしい人なんだなぁ・・・と感じます。

ゾッとする話もあれば、不思議な話もあり。よくネタが尽きない・・・。

今年はツアー15周年記念講演だそうで、どこかいつもと違うのか、はたまたいつもどおりなのか
とにかく楽しみ!

2007年9月13日木曜日

それは、生き甲斐ですか?

私の昔の職場の同僚で、後輩と結婚し二児をもうけたM君。
二人目の出産後、彼女は若くして脳溢血に倒れ、寝たきりで会話もままならない状態。
そんな状態がここ何年も続いているようです。
妻の介護や家事、子育て、おまけに子供の怪我や病気の通院などなどに奮闘し、仕事もままならずに有給もすでにこの半年で無くなりそうだとか・・・・。

大変だよね。つらいよねって思う。

今日、彼の上司でもある私の友人からM君のことで相談がありました。
「日々の生活の大変さに加えて、自分の体の不調や、子供の怪我が続いたり。このごろの彼はますます見るに忍びない。変なことを言うようだけど、お払いしてもらったほうがいいんじゃないかという気にさえなってくる。特に上司としては、Mの勤怠や仕事への姿勢が、職場の信頼を失いかけてることに対して危機感も感じる。子供の将来もある身で、仕事がうまくいかなくなるのは決していいことじゃない。自分として出来ることはないのかな。」と。
私は「M君自信が何かを変えなきゃ・・・と思わない限り、何も変わらないのじゃないかと思う。今、感じていることをストレートに伝えてあげることじゃないかなぁ。」と答えました。

M君はおっとりとしていて、優しい。だからなのか、長いものに簡単に巻かれてしまうところがある。
自分より人のことを優先してしまうようなところがある。
よく言えば、自分の運命みたいなものをすんなりと受け入れてしまう。
悪く言えば、自分がないようにも見える。

彼女が倒れたときから、彼女の両親は近くに越してきて今も日中の介護をカバーしてくれている。
もちろん、同居しているわけではないので、すべてをやってくれるわけではありません。
親だって肉体的にも大変だろう、という遠慮がM君にもあるから、それ以外のことは自分がしなければ・・・とたくさんのことを抱えてしまうのかもしれない。
だけど、職場にも、自分の体力にも、支障をきたしている今のM君を見ていると、何かがが間違っているような気がしてならないのです・・・。

M君は何を守ろうとして職場や家族の人に頼り、何を守ろうとしてひとりで抱えているんだろう。


尽くすことは尊いことであり、美しいこと。
それは、一途な願いのこめられたものであり、ひとつの成就に向かうもの。

しかし、自ら憔悴し何かが崩壊していくような歯がゆさを感じるM君のこの状況は、尽くすということからどんどん離れていくように思えます。

「こんな事も昔は仕方なかったんだよ。」と力なく笑う、おばあちゃんの苦労話みたいだ。


M君に、そして(介護や子育てを含めた)人をケアする役割を担う人々すべてに聞きます。

それは、生き甲斐ですか?
それとも、対価の不十分な仕事ですか?

そこには、どんな願いがこめられていますか?
それは、どんな目的に向かっていますか?
あなたの苦しみや喜びは誰と分けていますか?


そして言いたいのです。
「ありがとう、感謝しています。あなたはすばらしい。生きていけるのもあなたのお陰です。」と言ってくれない相手をケアすることは、苦しくて、つらくて、自分が押しつぶされそうになります。
でも、燃え尽きるその前に「つらいのです、力を貸してください、話を聞いてください、お願いします。」と誰かに言う勇気を持って欲しいのです。
手を貸してくれる人がいたら、ただ一言「ありがとう。」でいいのですよ。
あなたの「ありがとう」で手を貸してくれる人々とあなた自身が、また動き出すのです。
あなた自身が発する「ありがとう」の一言が、あなたに何かを全うさせてくれるのです。

2007年9月11日火曜日

台風一過

台風が来ましたね。
私の住んでいる埼玉県は荒川が特別警戒水域となりまして、堤防すれすれまで水が・・・。

通り過ぎた翌日は休みだったんで、車で出かけたついでに橋3本通ってみました。(ヒマだったんだよ~)
空のグラデェーションがまず見事で、秩父連山の影に富士山の輪郭が見えたりして。
緑の生命力とか、川のパワーとか、すごく迫るものがありました。

ところで、今年はペルセウス流星群の当たり年(こういう言い方するのかな?)でしたね。
私もピークだと言う8月14日に子供を強制参加させて、車で広い田んぼの真ん中でねっころがって見ました。空中に四方八方降っているんで、ねっころがってても見切れないほどでした。
宇宙の壮大さを感じました。

その昔、富士山から下に見える星を見たときや、飛行機からオーロラを見たときの感動を思い出しましたよ。

秋になったら、山へ行こうかな・・・。

ここから、地球の外で起こっていることが覗けますよ!→http://hubblesite.org/gallery/album/

エネルギーワーク

私の仕事は人と接することがメインなので、良くも悪くも、色々な人から影響をうけ日々生活をしています。今年に入って、色々感じることがありまして、目に見えない世界について発信している方々の様々な意見を見聞きする機会が増えています。
とても現実的な話から、あちらのほうまで。。。

これ、うまく説明できないんですが。
エネルギーをうまく流すことで何かが変わるらしい。

気功のプロが天気を変えるなんて信じられないことを以前に読んだ本に書いていたのを思い出す。
でも、あながちそれも嘘ではないらしい。

私はそれが目的ではないですが、少しでも自分やみんなが元気でいることって、素敵なことだなぁって思うので、興味深々です。

まず、現実的な方向からアプローチしています。