2007年10月30日火曜日

ラファエルの言葉

私の仕事は人と接することなので、時に「枯渇」したという感覚にとらわれることがありました。

エンジェルコネクションの中のひとつのアチューンメントを受けて3日ぐらい経った頃、強烈な浄化(?)が起こりました。
依存的な人々から、どんどん”自分のエネルギーを奪われていく”という感覚。とにかく肉体的にも精神的にも一杯一杯で、何も手につかず、辛くて辛くて涙も出ない感じ。
美しいと感じていた夕焼けを見ても、何も感じない。

どうすることも出来ないその感覚の中で、私は天使に祈っていました。
「助けてください。どうすることも出来ません。私は枯渇してしまっています。愛を持って接したいと思う人々に対して(家族にすら)今のままでは、何も与えることが出来ません。」と。

祈りを終えて、(半ば気休めぐらいの思いで・・・)二、三歩、歩き出したそのとき、何かが空へ地面へスッと抜けていくのを感じました。とたんにすごく楽になってしまったのです。
それと同時に、エメラルドグリーンの光が私を取り巻き、こんな言葉が私の頭の中に響きました。

「恐れずにあなたの思う愛を持って接しなさい。私たちはあなたを常に愛しています。あなたの必要とする力(愛のことだと思う)は、いつでも宇宙からあなたに注がれています。だから、あなたが枯れることは決してありません。」

暖かく、やわらかく力強い響き。
しばらく涙が止まりませんでした。

「ラファエル」
その相手が誰なのか、尋ねることはしている余裕もありませんでしたが。
「ラファエル、ラファエル」と自分の声が(頭の中で)リフレインしていました。

そのあと、ドリーン・バーチューの本でラファエルのことに触れる機会がありました。
そして、その後も時折、ラファエルはそっと私を支えてくれることがあります。

初めてラファエルが私に語りかけてくれたこの言葉は私のみならず、人類すべての人々に向けて告げられる言葉だと思います。
そして、私たちをとりまく宇宙と私たちと、その間に介在す天使の役割や存在理由を端的に示した言葉だと思っています。

2007年10月27日土曜日

ウリエルの言葉

私には天使のエネルギーは色のついた光となって感じられることがほとんどで、メッセージは頭の中に響く言葉となっていることが多いのですが。

かなり前、天使との交信を試みていた時のこと。

はじめに、ほんわりとした光が私を癒しに来てくれました。
(このとき私は結構落ち込んでいたように思います。)
「あなたは誰ですか?」と意識を向けると”ハニエル”という言葉が浮かびました。
「私はどうしたらよいのでしょう?」とまた意識を向けましたがそのエネルギーはただふわりふわりと私をなでるようにそこにありました。

すると突然、違う方向から全く強烈な別の光がやって来ました。まさにやって来たという感じに、一瞬にして私の目の前が明るい黄色の光で満たされ”ハニエル”は静かにそれを見守っていると言う感じでした。

「私はなぜ、こんなにも不完全なのでしょうか?」・・・と今考えるととても稚拙なことをその光に尋ねていました。
光は私の心に答えて言いました。
「神の創ったものに不完全なものはひとつもありません。」と。

目からうろこのこの一言で、なぜかすべてが解決したように思ったのを強烈に覚えています。

そうか、不完全だと言う観念を作り出しているのは自分自身なんだね・・・と。
そう考えれば、自分も相手も、この地球上に存在するすべては「完全なるもの」であって、すべてがいとおしく、すべてが(どうあっても)美しく感じられる。

納得。
私がその一言を理解したのを確信したように、二つの光は去っていきました。

翌日、あれは誰だったのだろうと考えるそばから、”ウリエル”という言葉が浮かびました。

実はこの頃、私は大天使たちの名前をほとんど知りませんでした。
”ミカエル””ガブリエル””ラファエル”ぐらいは知っていましたが、他の大天使たちがどんな名前で、何に長けているかなどと言う知識はほとんどなかったんですよ。
だからこの日も、以前に幾度かメッセージをくれた”ラファエル”に何かアドバイスをもらえないかと・・・。

で、すごく気になって、その筋の本を調べると、”ハニエル”も”ウリエル”もそこに記された名前だったので更ににビックリ!

あの暖かい閃光。
現れ方、去り方。
”ウリエル”カッコよすぎ!!

ラファエルもそうだけど、天使の言葉はいつも短く、そして的確。
なんていうんだろう・・・あの感じ。
そう!根底には常に愛がある。

大天使の大いなる叡智に感謝。

2007年10月22日月曜日

10月21日、その後。

謎の飛行物体を見てからその後。

「山へドライブに行きたいんですけど。」
と言うと、夫は「いいよ。」と軽く返事をした。

息子も誘ったけど、「N君が遊びに来たから行かない。」とつれないお返事。

「夕方には帰ってくるから、それまでには家に入りなさいよ。」と公園で遊んでいると言う息子に、念のため防犯ブザーを持たせて見送った。
今は1時半。この辺は埼玉のど真ん中だけど一番近い山へは1時間もあれば行ける。

「目標4時半ね。」と言って、家を出る。
「途中で寝ちゃったらゴメンネ。」「いいよ。」
私は昨日のお昼ごろから、全く寝てないんだけど今日は寝るのがもったいない感じ。
とにかく、朝見たあの山のパワーに触れないなんて、絶対もったいなさ過ぎる!

車は順調に進み、目指す山頂へ。
私にとっては旧知の場所。最近色々人の手が加わり、かなりの変貌を遂げてはいるものの、東京にいたる平野が望める場所に到着。
天気も風も申し分ないこの日を逃すまい、と集まったハンググライダー達がかなりウザイとは思ったけど、今日は気にしないことにした。

地上から湧き上がるエネルギーはすごい!
山はとてつもなくクリーンな気に満ちている。平野部からも立ち上っているのに、何かがそれを汚しているっていうのも一望できるのがちょっと悲しい。

青い空に、真っ白な雲が少しだけ浮かび風に流されてどんどん形を変えていく。
遠い空に境界線のようなものが見える。
地上から上がってくるエネルギーと宇宙から降り注ぐエネルギーとの境界みたいなもの。
それは、地上から持ち上げられた混沌や負という汚染されたエネルギーを浄化するシャワーが降り注いでいるような、壮大な風景。
やはり、東京に近くなればなるほどその境界がはっきり見える。

地球は頑張っている。天も地球を守ろうと頑張っている。
なのに温暖化は加速しちゃうっていうことがひどく悲しい。

そんなことを思ってふわふわしながら、久々のエネルギーチャージをして来ました。
これから、何ができるだろう。

帰り道はちょっと混んでいたけど、5時には家に到着。

今日は不思議な日だったなぁ。

謎の飛行物体?

昨日の朝、職場の窓から遠くに、秩父連山の美しい山の風景が見えました。
山の端からまさしく大地のエネルギーがほとばしっていて、それはそれはクリーンな風景。
「あぁ、今すぐあそこへ行きたい。」

仕事を終えてお昼過ぎに帰宅して、駐車場から家へ戻る途中。
私のハイヤーセルフにこんなお願いをつぶやいてみました。「天使の姿を(はっきりと)見てみたいのです。」
天使のエネルギーを感じたり、心に語りかけるメッセージを聞いたりしたことはあっても、その姿を実際にはっきりと(人間の視覚で)見たことはなかったんですよね。(幽霊ははっきり見えるんですがね…)

路地の角を曲がって、ふと空を見上げると、雲ひとつない青空に太陽の光を受けて星のように光る丸い物体がふわりと浮かんでいる・・・。

????

風船?それにしても高い。結構、風があったんですが、しばらく同じところにあって次の瞬間にフワっと動く、そんなゆったりした動き。
キラキラというより、銀色の星のようにピカーっと光っている。でもそれが丸い球体だと分かるもの。

とにかく、望遠鏡でのぞいたら見えそうな感じ。
家の前では、夫が息子の自転車を修理中で、一番したの息子がそれを手伝っていた。

「ねえ、あれなんだと思う?」
「どれどれ。」
「あれあれ。あの丸いやつ。」

と言っている間にそれは少しづつちいさくなっていく。

とにかく、双眼鏡!
双眼鏡を持ってきて空を見ると、それはもうみえなくなっていた。
もう一度。目を凝らして空を見ると、視界を横切る鳥の向こう側で、それが消えたとおぼしき遠くの空に緩やかに下降する白い翼がはためくのが一瞬見えた。(天使?)

とにかく残念。

夫は「目がチカチカしちゃって、見えなかった。」と言い。息子は「一瞬だけ。光ったのが見えた。」と言う。「えーっ。あんなにはっきり見えてたのに?」
まるで青空に金星が見えていたようだったよ。

結局、それが何だったのか、その後見えた白い翼と関係あるのか全く分からないけど、以前に何回か見たことのあるいわゆる「UFO」とは全く違った感じでした。

ハイヤーセルフとはその後、何も交信していないんでどんな意味があるのかさえも謎のままですが、いつかまた、会えるような気もするので、今は深く考えないようにしよう。

2007年10月15日月曜日

危機管理って・・・

危機管理とかリスクマネージメントとか、この頃よく耳にする言葉です。
何か事件、事故が起こるたびに「責任者の危機管理が…」なんてあたりまえのように指摘されてますが。

思うんですけど、この場合の「危機管理」って本来、想定される危険因子を事前に把握して、回避するということですよね。
で、この「危機」による被害者というのは本来、消費者だったり患者だったり、管理を受ける側だったりするんだと思うんだけど。
近頃の流れを見るに、経営側の「経営の危機」に関する防御を危機管理と呼んでいるんじゃないかと思えてならない。

PL法に代表される、分厚い取扱説明書の警告欄や治療・手術前の医者のインフォームドコンセント、いづれにしても「こういう場合は責任は持ちません」という但し書きでしかないようにおもえてならない。
それを重々承知の上で、その取り説を読んだり、説明を受けたりしている平凡な人々は偉いなぁと思う。

訴訟国家アメリカのクズみたいな弁護士が、クズみたいなことで訴訟を起こして、クズみたいな判審員がそれに引きずられて常識では考えられないような判決が出るっていうのに習い、保障、保障と騒いでいる世の中が背景にあるわけだけど。そんなことは夢にも考えていない善良な人々にまで、それはないでしょうと思う。
(証券会社がお客が売っても買っても利益が出るように、裁判でご飯を食べているひとは訴訟が増えれば食いはぐれはない訳です。で、殺人の原因がドラえもんだったなんてことも言い出す阿呆が増えるのです。死刑を回避するために、あんなにたくさんの弁護士に誰がお金を払ってますか?少なくても国選弁護人ではないですよね。ボランティアという名の売名行為ですか?死刑回避といいつつ、人の生き死にに対価を求めてるのは結局あんたたちじゃないんですか?危機管理から逸脱してしまいましたが(^^;)

なぜこんなことを言ってるかというと、近所のおじさんが手術を受けるのに「医者に脅されて、不安で不安で仕方ない、けど他に方法もない。」って言うのを聞いたから。

患者の意思を尊重し、選択の自由を促すためのインフォームドコンセント、自分の身に起こること治療の内容を納得して治療を受けるためのインフォームドコンセントのはずなのに、手術前の患者を不安にしてどうするんだよって思います。
「これを治すにはこれとこれしかないです。でもこんなことやあんなことが、これくらいの確率で起こる可能性があります。それでもやりますよね、他に方法がないんだから。」っておじさんの耳には聞こえていたに違いない。
手術じゃないと・・・って言われただけでショックなのに、こんなことがあってもそれは選択した人の自己責任ですよ。じゃここに(訴えないって)サインしてって言われたらどう?
そりゃ、何事もすべてがうまくいくわけじゃない、当たり前だ。でも失敗したら、どうしてくれますか?って聞く患者はおそらくいないと思う。言い方、接し方、その医者の心構えの問題なんじゃないかな。

神の手を持つというある脳外科医がテレビの特番で「患者さんは命を掛けている、だから僕もリスクの説明はしない。自分を守って手術をするなんて、命を掛けている患者さんに失礼だと思うんです。」といっていた。すごい、分かっている人なんだなぁとひどく感心しました。手術を受ける患者さんも「あの人の人間としての姿勢に絶対的な信頼を置いています。何かあって僕が死んでもこの人になら命を預けていいと思っています。」と言っていました。本当にすごい。でも、それが真理なんじゃないのかな。
愛があるもの。

台所で包丁を使っていて指を切っても、車を運転していて事故にあっても、製造者や販売者を訴えたという話は聞いたことがない。当たり前だけど・・・。

それを人は常識と呼ぶ。

相手に対する思いやり。結果に対する反省。
危機管理の言葉の裏には、何かを人に提供する側の思いやりが問われなければいけないのじゃないでしょうか?そしてそれは、うちはこんなにちゃんとやってます的なものでなくて、提供するときも、その後も、極めて常識的な感覚での対応が求められているんじゃないですかね。

もし、私がおじさんと同じ立場だったら・・・「先生も同じ病気になったら、安心して受けられる手術ですか?先生の親がこうなったら、手術を勧めますか?」って聞いてみようと思います(^^)

2007年10月13日土曜日

癒すということ

「癒す」という言葉が多く使われて何年もたちます。
では癒すとはどういうことなのか?
どうなると癒されたと思う?

気持ちが前向きになる。活力が出てくる。すっきりする。

うーん・・・分かりにくい。

膨大な広告の中にもたくさん出てくるこの言葉。
簡単に使っている割には、言葉の奥行きの深さと、現実の癒しのあっけなさとの間にあるギャップが、すごく大きく感じられるのは私だけ?

リセットすること?
ゲームみたいにね、リセットできればいいよ。リセットしてやりなおす・・・。
でも人生のロールプレイはリセットできない、過去を生かしてよりよい未来を手に入れるしかない。

肩が凝って、それをマッサージする。
それは癒し?

私はそれを「ほどく」と呼ぶのが一番ふさわしいような気がしています。
(まあ、ほぐすでもいいんだけど。)


エネルギーワークや他の私の個人的な活動のなかで、伝えたいことは色々あるんですが。
大きなストレスや苦痛、悩みに立ち向かう、その人本来の力を呼び覚ますこと。
それが私の一番の目的です。
それを癒しと呼ぶのか否かは正直分かりませんが。

スローライフだとか、ロハスだとか何かを自分に課すのではなく、今の今までの自分をまず認めて、そこから求める方向を選択する。その結果がどういうネーミングでもいいんです。自分が満足する方向に向かっているというのが本来あるべき状態なのだと。
(もちろん、それが非社会的なものであれば淘汰されます。うまくいきません。このことに関してはまたの機会に触れてみようと思います。)

自分の魂を癒す力は、誰もが個々に持っている力です。
私は魂の癒しって言うのは、最終的に与えられるものではないと思うのです。
きっかけや方向性を与えられることはあっても、その人の本質には誰も手を出せないからです。

なので、私ができることはきっと、技術的なレベルが上がったとしてもどこまでもお手伝いです。
目の前のフィルターが除かれて、よく見えるようになる。
重荷が除かれて、よく動けるようになる。
数え切れなくなったものが、数えられるほどになる。
それだけでできる事や、分かることが出てくる。
そういうものなんじゃないかなぁ。

いろんなことがあるから、肩凝りみたいにほぐしてもほぐしてもまた凝ってくる。
なら、そのつどほぐすしかないじゃんね。
でも、肩が凝らないような生活ができたら一番いいよね。

今の時代、膨大な情報や移動の高速化でやることが知らない間に増えている。
人はいつもいつも緊張している。

だから、とりあえずほどかなきゃね。

2007年10月12日金曜日

感性のちがいはどこからきたんだろう?

「兄弟は他人の始まり」
とはよく言ったもので、親を見ていても、自分に置き換えてみても、自分の子供を見ていても、同じ親から生まれて同じような(全く同じではないけどね)環境で育ったのになぜこうも違うのか・・・と思うことがたくさんありますね。

グリム童話なんかには、三兄弟のそれぞれの話がよく出てきます。
たいがいは一番下の弟が最後に幸せになるという話が多いのは、下克上が現実的でなかった昔は、まさにこの展開が人々の関心を引く夢の世界だったのでしょうね。

うちの息子たちも三人三様の感性の持ち主で、長男はいわゆるインディゴチルドレン。残りの二人はクリスタルチルドレン。・・・らしい。
で、長男と次男の感性は全く違う。

次男は几帳面で争いごとを嫌い、近頃だいぶワイルドになってきたものの潔癖症チックなやつだ。
「お前はちっちゃいころ、いくら注意しても公園や庭の土を平気で食うような奴だったんだぞ。」と言っても「それはオレじゃない。」といってハバカラナイ。(いや、君だから。)
ファミレスのドリンクバーのコップを細かく点検してから、飲み物を注ぐようなちっちゃい男である。

長男は口下手で何事も気にしない。気にしなすぎな奴で、何事も受け流す人。
受け流しすぎて、重要なことも流れてしまう。常識人から見ると、かなり変な奴だ。
そのくせ時々、人の内面的なことを一言二言で言い当ててみたりするような侮れない男である。

三男はまだ発展途上ではあるけれど、クリスタルチルドレンの名にふさわしく(?)
「普通の水が体に一番いい。」と言ってみたり。突然、丸球の天然石を買ってくれなどと言い出したりする。「なぜその石なんですか?それをどうするんですか?」と聞くとあっさり「集中力をあげたいから。袋に入れて、机にぶら下げる。」などといってみたりする。ベッドの枕元に置いてあるのもある。(?????君、机で宿題やらないじゃないですか・・・トレカの整理のことですか?)
外見はただの小学4年生なんだけどな・・・。

先日、ワイシャツをめぐってこんなことがありました。
制服のワイシャツ(学校指定だけど外見上はただのワイシャツ)のボタンが取れてて着られないから、ボタンをつけてくれと次男に言われました。
まだ、暖かいんだから袖なんかまくっとけよと思いつつ、ヘイヘイ明日つけます。とハンガーに掛けて置いておいた。
次の日仕事から帰り、ボタンを着けようとしたら、ナイ。

やがて、長男が自分の学校指定のワイシャツを着て行かずに弟のを着ていっていたことが判明。
「ワイシャツなんてどれも同じじゃん。袖のボタンなんてなくても着られる。」というのが兄の言い分。
イヤイヤそうでなくて、そもそもそれは君のじゃないんですけどね。

・・・というように、~が~だから出来ない。と感じる弟に対して、~が~でも出来る。と感じる兄。
物事に対するこの感性の違いってどこから来るんでしょうかね?

そもそもこの二人、部活で同じ楽器をやっている。
弟が同じ楽器を選んだ理由は定かではないが、兄が三年間愛情込めて恋人のように手入れをしてきた、中古だけどピカピカのお下がりの楽器をもらっておいて、それを三ヶ月の間に三ヶ所凹ませた。といってこの夏休みに兄は静かに怒りながら黙々と手入れをしていた。

この三兄弟の行方、楽しみです。

脳内メーカー

皆様もうほとんどの方がこのサイトをご存知だと思います。→http://maker.usoko.net/nounai/
(オリジナルの類似サイトもたくさん出ていますが・・・)

オモシロスギ!

すごいです。
誰が考え出したか知らないけど、名前だけでなぜそんなことが分かる?
もちろん、何の根拠もない冗談みたいな分析結果なんですが。

私の知り合いは脳の半分が「嘘」、そして残りの半分は「悪」でした(爆笑)
それから、別の友達は「H」に囲まれた広い空間にぽつんと「友」の一文字(大爆笑)
ありえない感じだけど、方向性としては決して間違ってないから不思議。という個性の持ち主たち。
私は彼女たち、好きですけどね。



昔、久しぶりの同級会から帰ってきた父がぼそっと「人間、10歳ぐらいのときから本質的には変わりがないんだなぁ。」って言ったことがあります。
考えてみれば、そうかもね。

いろんな情報(経験というのも情報のうち)が蓄積されてやることややり方は変わるけど、本質的な善悪の判断や好みや得意なこと、性格や考え方って言うのはあんまり変わってないかも・・・。

人の脳は10歳までにそのほとんどが完成すると言われてますが、それに従えば父の言ったことはイイとこ突いてるのかも知れません。
こう考えると幼児教育、更には小学校の教育ってすごく大切なんだな・・・と思います。

大人になってからの作法や礼儀、言葉遣いなどなど、その世代の方々の人との接し方って、絶対に小学校時代の教育が反映されてると思いますもの。
今の子供たちは、学校の先生とタメグチで話すのが当たり前なんで、面接の訓練なんていうのが、入試前に繰り広げられていて、苦労するなんていう先生の話も聞きますが、「だったら”訓練”なんて必要ないように、日ごろから先生方が教育しとけばいいじゃないですか。」と私は思う。
日ごろ生徒と、タメグチで話すこのを当たり前にしていて、入試のときはちゃんと話せと言われたって、無理だ。日常というものはポロリと出るものだし。
言葉遣いや態度なんて、家庭で教育するのには機会に限界がありますよ。
公共のルールは公共の現場でしか教育できないと思いますが・・・。

仕事でいろいろな年代の方とお話しますが、戦前戦後の教育を受けてこられた方々は、それこそ今の子供のように高学歴の方々は少ないですが、人の話を聞く態度、話し方、言葉使いはどれも美しい人が多い。
いわゆる、身についているということです。
こういった、印象、勤勉さなどがひときり世界で日本人の評価を高いものにしていたのです。
弊害もあったでしょうが、学校教育の賜物なんでしょうね。

表面的な猿真似・欧米化した団塊以降の世代に引っ張られて混乱している日本を脳内メーカーにかけるとどんな構造になっているのか見てみたいです。

2007年10月8日月曜日

来ました!

金曜の朝、私のパソコンが壊れ、日曜日には1ヶ月の入院生活を余儀なくされました(;;)

本当に一昨日まで、いろいろな事でダウンしていましたが・・・
来ました!
重ーい扉がギッギーっと少しだけ開きました。

以前から誘われていた、ボランティアに関するワークショップ。
電車に乗ったときはやっぱりダルダルな気分だったんですが、今回のワークショップにも関係あるイベントで以前お会いした方から、まるで私が今どんな心境で、今日どこへ何をしに行こうとしているのか知っているかのような(ダルダルからの脱出についてのヒントみたいな内容の)メールが入っていてまずビックリ!駅で偶然会ったKさんと会場に向かう途中、「オレなんだか最近ずーっとやる気ないんだよねぇ。」なんて話を聞いて(あぁ、つながってる人ってみんなシンクロしてるんだな。)なんて思ったりして。
これは偶然ではない。必然だったんだね。

解凍。発芽。どう表現したらよいかわからないけど、ほどけて来たかな?
この一日で、自分にとって必要なものと不要なものが見えてきました。
このワークが直接関係しているわけではないのに、ひとつの大きなきっかけではありました。

とにかく、何か新しい領域に踏み出し、ひとつのことを仲間で学ぶ機会があるってイイことだと思いました。
1~2ヶ月ぶりで会う人とそこでしかできないシェアができる。やっぱり素敵。
「愛」を前提に「その場」を共有している人たちと過ごす言い知れぬ安心感。
みんな別々の仕事、立場、年齢、日常を送っているんですが、全く関係なし。

ダークだった分、小さな光がとても明るく感じられました。
光が充填される感じ?

帰りの電車の中では、ワクワクしながらたくさんの「I DO」を考えつきました。

ちょっと単純!?

2007年10月4日木曜日

浄化!?

バイオリズムって誰にでもあると思うんだけど。
エネルギーワークを始めてからというもの、この谷間と思われるところに、時々ドッカーンとダークな時期が訪れるようになりました。

人は日々、精神的に成長し続けるもので…あるエネルギーの流れを受けて、不要なものの排出や観念の変化が起こるときにやってくる一種の浄化であるという説があります。
現実には憂鬱気分と呼ばれているものだと思うんですが、アチューンメントを受けた直後なんかに起こるものを”好転反応”と呼んでみたりしているらしい。
(いっておきますが、化粧品をはじめとした薬物や食品で、吹き出物や発疹などが出るのをこう呼んでいた、とあるネットワークビジネスを知っていますが、医学的に”好転反応”などという言葉は存在しません。それは確実にアレルギー反応です。)

社会生活の中で受ける様々なストレスから身体に何らかの反応が出るとき、人はほとんど無自覚なことが多いのです。
何がストレッサー(ストレスの素)でいつストレスがかかっているか自覚できる場合、それを何らかの形で解消または回避しようとするので、病気になることはめったにないと言えます。
しかし、仕方なく引き受けている役割を果たそうとすることや、小さなストレスの積み重ね(これぐらいは我慢しなきゃレベルのこと)は知らず知らずに身体に負担を掛けていき、その人の弱いところをジワジワ攻めて行きます。
突発性難聴や急性の失語症、胃腸炎、高血圧、多食による糖尿病、アルコール依存、自律神経失調、肥満、やせ、などなど、心では跳ね返しているはずのストレスは体がしっかり受け止めていることが多いのです。
だからストレスは万病のもと。どんな症状が出ても不思議じゃない。

で・・・この単なる憂鬱気分と浄化の違いってなんだ?
と考えると「全く分かりません」というのが私の答えです。

ただ、自分の中で思うに、憂鬱さの中に何か方向を模索している自分がいるというか…確かに何かに向けて鬱々としているような気がする。(うまく説明できない)
それと、汚い話で悪いのですが。終盤ぐらいに凄い下痢をするんです。食中毒にかかったのかと思うくらい…。一通りすると、何事も無かったかのようにピタッと治まる。
もともと、胃腸はすこぶる丈夫な方で、私に関しては賞味期限なんてあってないようなもの…フフっ。
なので、この症状は不思議で不思議でたまらない。

う~ん。
どこへ行くんだ、私。

自分と身近な人たちの健康維持(心と体の…)の一環として始めたエネルギーワークで、病気になるとは考えにくい。これはやはり浄化なんだと思うことにします。

レイキでは、すべて治すということではなく、本来の治癒力や自浄作用を促すことで調整されるというのが基本なので、医療や他の療法との併用でさらに効果を上げることが出来ます。
実際、6年間続いた私の慢性的な関節炎に対しては”病院で治療を”という促しがされ(自分で行かなきゃと思っただけだけど)、数ヶ月かかるという診断にもかかわらず、一度の治療で数週間その効果が持続し、その後全く痛みや動きの制限がなくなってしまいました。

徐々に谷間の谷が浅くなるよといわれ。また、薄皮が一皮向けて真の自分へと近ずくのだ、と思うとこの憂鬱からの脱出もある意味楽しみだけど、遠くに光が見えてくるまでが・・・ツライ・・・。

まぁ、のんびり行くしかないか・・・。

2007年10月1日月曜日

マイケル・ムーア~シッコ~

マイケル・ムーアの”シッコ”という映画が公開されている。
テレビでの宣伝は見たことが無い。

なんで?

厚生労働省とか、日本医師会とかの何か陰謀めいた操作があるんでしょうか?

日本は皆保険制度が定着しているので、「アメリカってかわいそうな国なんだね。」なんて思うこと必至だからなのか?
この映画が、宣伝されない理由が分からない。

お金がかからないための保険制度なはずなのに、お金がないと入れない。
健康を維持促進するための医療なのに、お金がないと受けられない。
本末転倒な現実がアメリカにあるのです。

ここでも出てくるキューバという国は社会主義・独裁国家と呼ばれていますが、一キロ四方あたり24時間体勢の診療所を1つ置き、臓器移植に至るまですべての医療費が無料であるという医療先進国。
医学生の育成はすべて国家予算でまかなわれる。
まさにアメリカの敵国はアメリカとは全く違う制度を持っている。

国家予算の使い道の違いが、国民の安全と健康を左右するといういい見本である。

アメリカでは軍事も医療も他の産業に漏れずビジネスである。
アメリカの軍事費は国民の安全を守るために(今は世界の安全を守るために?)必要であるというのがアメリカの主張だが、国民の安全を何から守るかという大儀が欠落している。

はじめはソ連中心の共産主義だった。
東西の壁が壊れると、今度は石油産出国の反逆の主イラン。そしてイラク。
今はテロリスト・・・。
都合よく相手を替えて「お前ら何も分かっちゃいないんだよ」といわんばかりに、目ざとく「敵」を作り出しているように思えてならない。

ERなんか見てると、すごーく進んでいるというイメージのあるアメリカの医療だけど、それに預かれるのは一部の人々である。
アメリカの平均在院日数は3日といわれている。これは入院費がべらぼうに高いためで、扁桃腺がはれたから・・ぐらいで1週間も点滴しながらゴロゴロしていられる日本人からすると全く考えられない。
妊婦さんも出産1~2日で帰らないと凄い金額の請求書がくる。

話はちょっと違うけど、患者が病院にたった3日ぐらいしかいない、(で・・・給料は日本の4倍もらっている)国の考え方を中心に、それを手本にした看護師教育が行われているのも日本の現実。

健康保険制度が破綻してきているといわれている日本が、アメリカに続こうとしている動きがある。
言っておくけど、アメリカの医療制度は手本にならない世界有数の医療制度後進国なんだよ。
救急車がたらいまわしの破綻しそうな医療制度に、日本がどのくらい国家予算をさいていて限界だと言っているのか考えて欲しい。

単なるアメリカ批判ではなく、お金儲け中心の国の繁栄が一人ひとりの幸せにつながるのか、ということをこの映画を観て考えてみて欲しいと思う。
「国民の安全と健康を守るという国の使命」を具現化するために行うべきこととは何かが、彼の前作”華氏911”とつなげてみると良く見えてくる。