ブログから足が遠のいてしまってる間に、たくさんの出来事があった。
このところ、物事の進展が加速している。
11月の終わりから今までに、新規に20人ぐらいの人と知り合った。パーティに行ったわけではない。
20人…尋常な人数じゃないことに、今頃気がつく。
きっかけは弟。そこから始まり、何人かと知り合い、知り合いが知り合う場へと動き、それぞれ全く関係のない人と出会う。
考えてみれば、2007はそんなことが夏にも起きていた。
先日、友達から「今、大殺界のド真ん中だから注意したほうがいいよ。」って言われたけど、(友によると、大殺界は3年続き、2007から始まっているという。その間、新規ごとは禁忌なのだそうだ)そんなこと、言われたって、昨年は新規ごとてんこ盛りの一年年で終わった。
加速している物事の中で、新年早々の人事異動があった。明日には新しい職場である。
大殺界でも押し寄せてくるものは仕方ない。小さくなってもいられない。
おまけに、どんどん私の夢に近づいている。
2月にはすでに昨年はじめたボランティアでの私のモデルである素敵な人が、アメリカからやって来る。
そのワークショップに参加することになっている。
3月にはエネルギーワークのワークショップにも参加することになっている。
新規の職場への緊張感より、2007の年の暮れからワクワクし続けている。
ワクワクしながら、身を任せることの心地よさを実感しているところ。
2008、今年もたくさんの出会いと学びと成長が得られますように!
2008年1月8日火曜日
2007年10月15日月曜日
危機管理って・・・
危機管理とかリスクマネージメントとか、この頃よく耳にする言葉です。
何か事件、事故が起こるたびに「責任者の危機管理が…」なんてあたりまえのように指摘されてますが。
思うんですけど、この場合の「危機管理」って本来、想定される危険因子を事前に把握して、回避するということですよね。
で、この「危機」による被害者というのは本来、消費者だったり患者だったり、管理を受ける側だったりするんだと思うんだけど。
近頃の流れを見るに、経営側の「経営の危機」に関する防御を危機管理と呼んでいるんじゃないかと思えてならない。
PL法に代表される、分厚い取扱説明書の警告欄や治療・手術前の医者のインフォームドコンセント、いづれにしても「こういう場合は責任は持ちません」という但し書きでしかないようにおもえてならない。
それを重々承知の上で、その取り説を読んだり、説明を受けたりしている平凡な人々は偉いなぁと思う。
訴訟国家アメリカのクズみたいな弁護士が、クズみたいなことで訴訟を起こして、クズみたいな判審員がそれに引きずられて常識では考えられないような判決が出るっていうのに習い、保障、保障と騒いでいる世の中が背景にあるわけだけど。そんなことは夢にも考えていない善良な人々にまで、それはないでしょうと思う。
(証券会社がお客が売っても買っても利益が出るように、裁判でご飯を食べているひとは訴訟が増えれば食いはぐれはない訳です。で、殺人の原因がドラえもんだったなんてことも言い出す阿呆が増えるのです。死刑を回避するために、あんなにたくさんの弁護士に誰がお金を払ってますか?少なくても国選弁護人ではないですよね。ボランティアという名の売名行為ですか?死刑回避といいつつ、人の生き死にに対価を求めてるのは結局あんたたちじゃないんですか?危機管理から逸脱してしまいましたが(^^;)
なぜこんなことを言ってるかというと、近所のおじさんが手術を受けるのに「医者に脅されて、不安で不安で仕方ない、けど他に方法もない。」って言うのを聞いたから。
患者の意思を尊重し、選択の自由を促すためのインフォームドコンセント、自分の身に起こること治療の内容を納得して治療を受けるためのインフォームドコンセントのはずなのに、手術前の患者を不安にしてどうするんだよって思います。
「これを治すにはこれとこれしかないです。でもこんなことやあんなことが、これくらいの確率で起こる可能性があります。それでもやりますよね、他に方法がないんだから。」っておじさんの耳には聞こえていたに違いない。
手術じゃないと・・・って言われただけでショックなのに、こんなことがあってもそれは選択した人の自己責任ですよ。じゃここに(訴えないって)サインしてって言われたらどう?
そりゃ、何事もすべてがうまくいくわけじゃない、当たり前だ。でも失敗したら、どうしてくれますか?って聞く患者はおそらくいないと思う。言い方、接し方、その医者の心構えの問題なんじゃないかな。
神の手を持つというある脳外科医がテレビの特番で「患者さんは命を掛けている、だから僕もリスクの説明はしない。自分を守って手術をするなんて、命を掛けている患者さんに失礼だと思うんです。」といっていた。すごい、分かっている人なんだなぁとひどく感心しました。手術を受ける患者さんも「あの人の人間としての姿勢に絶対的な信頼を置いています。何かあって僕が死んでもこの人になら命を預けていいと思っています。」と言っていました。本当にすごい。でも、それが真理なんじゃないのかな。
愛があるもの。
台所で包丁を使っていて指を切っても、車を運転していて事故にあっても、製造者や販売者を訴えたという話は聞いたことがない。当たり前だけど・・・。
それを人は常識と呼ぶ。
相手に対する思いやり。結果に対する反省。
危機管理の言葉の裏には、何かを人に提供する側の思いやりが問われなければいけないのじゃないでしょうか?そしてそれは、うちはこんなにちゃんとやってます的なものでなくて、提供するときも、その後も、極めて常識的な感覚での対応が求められているんじゃないですかね。
もし、私がおじさんと同じ立場だったら・・・「先生も同じ病気になったら、安心して受けられる手術ですか?先生の親がこうなったら、手術を勧めますか?」って聞いてみようと思います(^^)
何か事件、事故が起こるたびに「責任者の危機管理が…」なんてあたりまえのように指摘されてますが。
思うんですけど、この場合の「危機管理」って本来、想定される危険因子を事前に把握して、回避するということですよね。
で、この「危機」による被害者というのは本来、消費者だったり患者だったり、管理を受ける側だったりするんだと思うんだけど。
近頃の流れを見るに、経営側の「経営の危機」に関する防御を危機管理と呼んでいるんじゃないかと思えてならない。
PL法に代表される、分厚い取扱説明書の警告欄や治療・手術前の医者のインフォームドコンセント、いづれにしても「こういう場合は責任は持ちません」という但し書きでしかないようにおもえてならない。
それを重々承知の上で、その取り説を読んだり、説明を受けたりしている平凡な人々は偉いなぁと思う。
訴訟国家アメリカのクズみたいな弁護士が、クズみたいなことで訴訟を起こして、クズみたいな判審員がそれに引きずられて常識では考えられないような判決が出るっていうのに習い、保障、保障と騒いでいる世の中が背景にあるわけだけど。そんなことは夢にも考えていない善良な人々にまで、それはないでしょうと思う。
(証券会社がお客が売っても買っても利益が出るように、裁判でご飯を食べているひとは訴訟が増えれば食いはぐれはない訳です。で、殺人の原因がドラえもんだったなんてことも言い出す阿呆が増えるのです。死刑を回避するために、あんなにたくさんの弁護士に誰がお金を払ってますか?少なくても国選弁護人ではないですよね。ボランティアという名の売名行為ですか?死刑回避といいつつ、人の生き死にに対価を求めてるのは結局あんたたちじゃないんですか?危機管理から逸脱してしまいましたが(^^;)
なぜこんなことを言ってるかというと、近所のおじさんが手術を受けるのに「医者に脅されて、不安で不安で仕方ない、けど他に方法もない。」って言うのを聞いたから。
患者の意思を尊重し、選択の自由を促すためのインフォームドコンセント、自分の身に起こること治療の内容を納得して治療を受けるためのインフォームドコンセントのはずなのに、手術前の患者を不安にしてどうするんだよって思います。
「これを治すにはこれとこれしかないです。でもこんなことやあんなことが、これくらいの確率で起こる可能性があります。それでもやりますよね、他に方法がないんだから。」っておじさんの耳には聞こえていたに違いない。
手術じゃないと・・・って言われただけでショックなのに、こんなことがあってもそれは選択した人の自己責任ですよ。じゃここに(訴えないって)サインしてって言われたらどう?
そりゃ、何事もすべてがうまくいくわけじゃない、当たり前だ。でも失敗したら、どうしてくれますか?って聞く患者はおそらくいないと思う。言い方、接し方、その医者の心構えの問題なんじゃないかな。
神の手を持つというある脳外科医がテレビの特番で「患者さんは命を掛けている、だから僕もリスクの説明はしない。自分を守って手術をするなんて、命を掛けている患者さんに失礼だと思うんです。」といっていた。すごい、分かっている人なんだなぁとひどく感心しました。手術を受ける患者さんも「あの人の人間としての姿勢に絶対的な信頼を置いています。何かあって僕が死んでもこの人になら命を預けていいと思っています。」と言っていました。本当にすごい。でも、それが真理なんじゃないのかな。
愛があるもの。
台所で包丁を使っていて指を切っても、車を運転していて事故にあっても、製造者や販売者を訴えたという話は聞いたことがない。当たり前だけど・・・。
それを人は常識と呼ぶ。
相手に対する思いやり。結果に対する反省。
危機管理の言葉の裏には、何かを人に提供する側の思いやりが問われなければいけないのじゃないでしょうか?そしてそれは、うちはこんなにちゃんとやってます的なものでなくて、提供するときも、その後も、極めて常識的な感覚での対応が求められているんじゃないですかね。
もし、私がおじさんと同じ立場だったら・・・「先生も同じ病気になったら、安心して受けられる手術ですか?先生の親がこうなったら、手術を勧めますか?」って聞いてみようと思います(^^)
2007年10月12日金曜日
脳内メーカー
皆様もうほとんどの方がこのサイトをご存知だと思います。→http://maker.usoko.net/nounai/
(オリジナルの類似サイトもたくさん出ていますが・・・)
オモシロスギ!
すごいです。
誰が考え出したか知らないけど、名前だけでなぜそんなことが分かる?
もちろん、何の根拠もない冗談みたいな分析結果なんですが。
私の知り合いは脳の半分が「嘘」、そして残りの半分は「悪」でした(爆笑)
それから、別の友達は「H」に囲まれた広い空間にぽつんと「友」の一文字(大爆笑)
ありえない感じだけど、方向性としては決して間違ってないから不思議。という個性の持ち主たち。
私は彼女たち、好きですけどね。
昔、久しぶりの同級会から帰ってきた父がぼそっと「人間、10歳ぐらいのときから本質的には変わりがないんだなぁ。」って言ったことがあります。
考えてみれば、そうかもね。
いろんな情報(経験というのも情報のうち)が蓄積されてやることややり方は変わるけど、本質的な善悪の判断や好みや得意なこと、性格や考え方って言うのはあんまり変わってないかも・・・。
人の脳は10歳までにそのほとんどが完成すると言われてますが、それに従えば父の言ったことはイイとこ突いてるのかも知れません。
こう考えると幼児教育、更には小学校の教育ってすごく大切なんだな・・・と思います。
大人になってからの作法や礼儀、言葉遣いなどなど、その世代の方々の人との接し方って、絶対に小学校時代の教育が反映されてると思いますもの。
今の子供たちは、学校の先生とタメグチで話すのが当たり前なんで、面接の訓練なんていうのが、入試前に繰り広げられていて、苦労するなんていう先生の話も聞きますが、「だったら”訓練”なんて必要ないように、日ごろから先生方が教育しとけばいいじゃないですか。」と私は思う。
日ごろ生徒と、タメグチで話すこのを当たり前にしていて、入試のときはちゃんと話せと言われたって、無理だ。日常というものはポロリと出るものだし。
言葉遣いや態度なんて、家庭で教育するのには機会に限界がありますよ。
公共のルールは公共の現場でしか教育できないと思いますが・・・。
仕事でいろいろな年代の方とお話しますが、戦前戦後の教育を受けてこられた方々は、それこそ今の子供のように高学歴の方々は少ないですが、人の話を聞く態度、話し方、言葉使いはどれも美しい人が多い。
いわゆる、身についているということです。
こういった、印象、勤勉さなどがひときり世界で日本人の評価を高いものにしていたのです。
弊害もあったでしょうが、学校教育の賜物なんでしょうね。
表面的な猿真似・欧米化した団塊以降の世代に引っ張られて混乱している日本を脳内メーカーにかけるとどんな構造になっているのか見てみたいです。
(オリジナルの類似サイトもたくさん出ていますが・・・)
オモシロスギ!
すごいです。
誰が考え出したか知らないけど、名前だけでなぜそんなことが分かる?
もちろん、何の根拠もない冗談みたいな分析結果なんですが。
私の知り合いは脳の半分が「嘘」、そして残りの半分は「悪」でした(爆笑)
それから、別の友達は「H」に囲まれた広い空間にぽつんと「友」の一文字(大爆笑)
ありえない感じだけど、方向性としては決して間違ってないから不思議。という個性の持ち主たち。
私は彼女たち、好きですけどね。
昔、久しぶりの同級会から帰ってきた父がぼそっと「人間、10歳ぐらいのときから本質的には変わりがないんだなぁ。」って言ったことがあります。
考えてみれば、そうかもね。
いろんな情報(経験というのも情報のうち)が蓄積されてやることややり方は変わるけど、本質的な善悪の判断や好みや得意なこと、性格や考え方って言うのはあんまり変わってないかも・・・。
人の脳は10歳までにそのほとんどが完成すると言われてますが、それに従えば父の言ったことはイイとこ突いてるのかも知れません。
こう考えると幼児教育、更には小学校の教育ってすごく大切なんだな・・・と思います。
大人になってからの作法や礼儀、言葉遣いなどなど、その世代の方々の人との接し方って、絶対に小学校時代の教育が反映されてると思いますもの。
今の子供たちは、学校の先生とタメグチで話すのが当たり前なんで、面接の訓練なんていうのが、入試前に繰り広げられていて、苦労するなんていう先生の話も聞きますが、「だったら”訓練”なんて必要ないように、日ごろから先生方が教育しとけばいいじゃないですか。」と私は思う。
日ごろ生徒と、タメグチで話すこのを当たり前にしていて、入試のときはちゃんと話せと言われたって、無理だ。日常というものはポロリと出るものだし。
言葉遣いや態度なんて、家庭で教育するのには機会に限界がありますよ。
公共のルールは公共の現場でしか教育できないと思いますが・・・。
仕事でいろいろな年代の方とお話しますが、戦前戦後の教育を受けてこられた方々は、それこそ今の子供のように高学歴の方々は少ないですが、人の話を聞く態度、話し方、言葉使いはどれも美しい人が多い。
いわゆる、身についているということです。
こういった、印象、勤勉さなどがひときり世界で日本人の評価を高いものにしていたのです。
弊害もあったでしょうが、学校教育の賜物なんでしょうね。
表面的な猿真似・欧米化した団塊以降の世代に引っ張られて混乱している日本を脳内メーカーにかけるとどんな構造になっているのか見てみたいです。
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