2007年9月27日木曜日

暴力

「日本ではもう60年も戦争をしていない。」

それはそれで、幸せなことだけど。
ニュースでは連日”暴力”の犠牲になっている人たちについて報じられています。
怒りというか、悲しさというか、とにかくいつもある種の絶望感に襲われます。

躾という名の虐待。
指導という名の暴行。

相手を痛めつけているとき、そこに愛情って存在するのでしょうか?
自分の思うようにならない苛立ちを相手にぶつけているだけなんじゃないでしょうか?

”愛”って言うのは見返りを求めない気持ちであり、行為です。
自分中心の考え方を相手に押し付ける結果、相手を傷つける。それをどうして愛情だなんて呼べるのでしょうかね。
相手の幸せを奪うことで幸せになれるなんてことはありえない。


生まれて健康に育ってきたその肉体や精神を傷つけてもいい権利なんて、誰も持っていない。

エゴや何かへの執着が相手を抹殺すること、コントロールしようとすること。
自分の手が傷つかないように、痛まないように、ものを使い。
心が痛まないように、集団で行う。
罪にならないように、大儀をつくりだす。
戦争はそうして起こる。
恨みが報復と言う大儀をまた作り上げ、教育のなかに組み込まれ、受け継がれる。
善人のモラルは押し流され、捻じ曲げられる。

毎日報道されている暴力は個人の問題だと思うかもしれない。
多くの人が、それを他人事だとか、仕方ないとか感じているなら。
この国はまた何らかの形で戦争に参加する要素が十分にあるということです。

殴られたら殴り返す。殴られる前に殴る。
そんなことを仕方ないと思う人々がいる限り、愛を子供たちに伝えていくのは難しい。

自分の生活する小さな空間が平和ならいいと、小さな暴力や他の国の戦争という暴力に無関心でいること。その痛みを忘れること。
それが新たな暴力を生み出していると言うことを知ってください。

いつの日も、相手が(自分の周りが)幸せであることが自分の幸せの条件の核心であり、それを平和と呼ぶのだということを心に留めて欲しいのです。
私達は平和を維持できる魂へと進化しなくてはならないのだと思います。

人の長い歴史の中で、まだたった「60年間戦争しないでいるだけ」なんですから。